会社員というのは因果な商売だ。
ある一部の職種を除いて、その組織、もしくはある一定の条件を満たした環境に対するパーツとしての職能が身につくケースが多いからだ。(これはあくまで私の主観)
過去、自分の「好き」の延長を仕事にすることができ、1日8時間の勤務に関して、苦痛等々を感じたことがあまりなかった。
その後、いろいろ巡り巡って、現在の会社に辿り着いているのだが、
成り行きも相まって、仕事の内容で職を選べていない状況となっている。
つまり1日8時間は「使われている」と言ってよい時間の過ごし方となっていると思う。
1日8時間というと、人生のだいぶの時間を費やしているし、多くの人が社会での接点で一番大きな影響を受けるのが職場だと思う。会社の評価によって、好ましい仕事に就いたり、給料が上がって生活が豊かになったり、序列がつけられて自分が貴重な存在に思えてきたりするからだ。
しかし、それが落とし穴だと思う。
学校→会社と進んでくると、その外の世界について思いを馳せる機会が少ないと思う。
今でこそFIREなんて言葉が市民権を得てきているけれども、本気でそこに熱量を割いている人は、まだ少数なのではと思っている。だってそうでなかったら、会社の仕事を休みにやるなんて、ちょっと考えられないからだ。
若くて、会社に対してチャンスがいろいろあるなら、それもいい。
でも一定の年齢になったら、この会社員の状況に終わりが来ることを考えた方がよいと、私個人は思っている。
つまりアリとキリギリスで言ったら、アリとして冬がやってくることを見据えて、労働力と時間の投入する箇所について慎重に検討をし、コツコツと冬に備えて積み上げる必要があると思っている。
多くの人は、それが会社できちんと評価を積み上げて、長く勤め、リストラされず、順調に貯蓄をしていくことと思っているような節があると思う。
でもそれは、ある視点からみたら、キリギリス的な生き方になる可能性がある。
いつか終わりが来る世界に、いつまでもしがみつくような行為になりかねないし、従順にしていてもいつどこで首にカマが下りてくるかはわからない。
今、私の職場では、組織の中で評価を得ようと熱心なタイプが散見される。
その人たちの動機を、心を澄ませてみてみるに、あくまで主観だが、自分への自信のなさが原動力になっているように思える。
「自分がスゴイと思われたい」「自分の中にパワーを感じたい」「自分に価値があると思いたい」
こういう動機があるからこそ、組織の中での自分の置かれ方や見え方に敏感になり、ナーバスになり、職場の空気がギスギスしてきたりするのだ。
私が経営者だったら、こういう人たちは格好のカモだ。
コストがほぼかからない”承認欲求”をエサにすれば、給与発生時間外まで働いてくれるからだ。
昔、学歴を持ってよかったことは、学歴に振り回されなくなること という名言をWEB記事で目にしたことがある。
本当にそうで、コンプレックスというバイアスがかかると、物事が正常にフラットに見ることができなくなり、大事な判断を誤ることに繋がるからだ。
なので、結果、コンプレックスをあまり持たないで来られた人たちが、より良い判断ができるが故、様々な場面において、より有利に物事を展開していくチャンスに恵まれやすくなる。
私は幸運なタチで、社会における自分と言うものに対して、学校ではもちろん、会社においても、自信を持つには十分な評価を得ることができてきたので、誰かに評価されることに奔走しないで済む状態でいられている。あいにく、今の会社ではうまくはまっていないようで、社会に出てほぼはじめて、こんなにこき下ろされた扱いを受けたことはなかった。
ただ、これまでの自分の経験から、それは局所的なものであり、全てではないことを理解しているので、目の前の事象にムキにならず、どの問題を解くべきなのか、自信に問うゆとりが持てている。
「どの問題を解くべきなのか」というのは、「イシューからはじめよ」という本にある考え方で、目の前のすべての問題を解くのではなく、どの問題を解くことが一番インパクトが出せるかを見極めて、手を付ける、という考え方のことを指している。
そして、手当たり次第目の前の問題を片付けようとすることは、その本においては「犬の道」と称される行いにあたる。
つまり労力を投入しても、成果に繋がらない無駄ルートを取ることを指す。
その道は、犬の道か、否か。
問いながら、貴重な時間を有効活用したい。
Time is moneyなのだから。
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