私が計画的に引っ越しができなかった理由として、急遽猫を飼わなければいけなくなったという背景があった。
私が以前住んでいた住まいは、私史上最低家賃ながら、立地や間取りが絶妙で、謎に家賃に水道料金が含まれるなど、とにかく永年住む気持ちにさせるほど気に入っていたため、住まいに合わせた家具なども買いそろえていた。
その私のスーパー素敵なお城の近所には、有名なアイドルキャットがいた。
彼は私のアパートの駐車場を挟んだ隣の敷地のアパートに住んでいた。
そのアパートの前を通ると、ベランダの柵から顔をのぞかせたり、階段の踊り場から外を眺めたりしているのをよく目撃した。
そんな様子だったので、その子はこのアパートに住んでいる方の飼い猫であることは周知の事実となっていた。
また彼はとても人懐っこく、私を含め、複数名のお気に入りのお友達がいるようで(主に、年がいった女性が好みのようだ)その ”お友達” を見つけると、駆け寄ってお腹をみせて転がりながら、撫でてもらおうと甘えるため、多数の年配女性をたらしこんでいた。
私も彼の手法にはまった一人で、通りすがりに見つけると必ず声をかけてしまっていた。
あまりの可愛らしさに、人と必要以上に関わりたくない性分の私の癖を超えさせ、ある日飼い主の方に話しかけ、彼の名前を聞いてしまったくらいだ。
彼は去勢されたオスで、飼い主であるおばあちゃんがメスと間違えて付けた名前でそのまま来ているそうだ。オスであるはずの彼は「らんちゃん」「らん子ちゃん」と飼い主を含めた人々からそう呼ばれ、その地区で愛されて過ごしていた。
当時私は猫を飼いたい欲が最高潮を迎えており、どうにかして今の住まいのまま猫を飼えないか、大家さん含め、アパート管理会社含め、家賃を上乗せする交渉までして、現状維持のままペットが飼える環境を獲得できないか模索していた。
しかし思いは叶わず、ペット不可の物件の条件を覆すことができず、近所にいるらん子を愛でることで、何とか気持ちを納めようとしていた。
そんな矢先、飼い主であるおばあちゃんの家の荷物が急激に減っていく様子が見て取れた。
アパ―トからは荷物が運び出される日を何度も目撃したし、しっかりとしまっていたカーテンは取り外され、通りすがらでもその家がガランとしはじめているのを感じていた。
とうとう らん子一家とお別れとなってしまう日が来てしまったのだ。
やはり他人の家の猫を愛でるという中途半端な状態は、何も物事を進めない。
らん子がいなくなったら、どうやって猫欲を満たせばいいのか。
近場にある猫カフェに数回いったが、キャバ嬢と触れ合うような虚しさしか感じられず、かつて実家で飼っていた猫との間のような、熱い絆で結ばれた日々を過ごしたいと強く願った。
実家の猫を失って10年。それまでとても次の猫を飼う気持ちになれなかったが、とうとうその時が来たのだ。
らん子一家のお別れの気配も相まって、私も本格的にパートナーキャット2号探しと、その子と住める新居探しの2方向のリサーチ活動がはじまった。WEBサイトで見つけた候補キャットに会いに、県をまたいで出かけて行ったり、候補のアパートの内見かいくつか行っていた。
そうやって着々と私も、次のステージに向けた活動をはじめ、らん子一家も新しい暮らしがはじまっていく、と思われた。
ところが、アパートがガランとしたある日、ついにらん子が居なくなった、と涙していた。しかしある日私が帰宅すると、らん子はいつものように私の隣の車の下から這い出てきて、そこに健在だった。
そしてらん子のアパート前を通りすがると、年末の冷え込む時期に、家の手すりの前でうずくまって、おばあちゃんが帰ってくるのを待っている様子を何日も目撃した。
ゴミ捨てに行くおばあちゃんについて歩いたり、車で出かけるのを見送ったり、コンビニに行くおばあちゃんを待っていたりなど、2人の絆は確固たるもののように思えた。
2人には8年もの歴史があったと聞いている。あのおばあちゃんが、らん子を手放すなんてことあるんだろうか。
私は隣のアパートの管理会社に電話をかけた(そこのアパートも内見していたので、連絡先を知っていた)。
状況を説明したところ、該当の部屋の入居者は、先月末を持って退去しているとのこと。
おばあちゃんは一体どういうつもりなんだろう、らん子は一体どうなってしまうんだろう。
私はある日、とうとうおばあちゃんが元住んでいたアパートの家の前、らん子が未だにおばあちゃんを待ち続けるアパートの扉の前の踊り場へ昇ってみた。するとそこには、下から見えないような奥のスペースにエサと水が置かれていた。
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